道化が見た世界

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読者諸賢、自己の物差しを持っているか

 私たちは、果たして自分の物差しを持っているだろうか。よく「自分を持ってる人」といった表現が用いられるが、それは、自己の価値基準で、確固たる意志をもって、「正しい」あるいは「間違っている」と意思表明できる人間のことである。


 しかし、よくよく考えてみると、人はみな自分を持っているはずなのだ。ただ、その自分を見ようとしないだけだ。社会で生きる為には、少なからず自己を押し殺さねばならない。そして、それに慣れてしまったら、いずれ自己は埋没する。社会からの逸脱を恐れ、他者の排他的目線に小心翼々する。必然的に個性は画一化される。


 自分を持つことと持たないこと、果たしてどちらが良いのだろうか?この問いへの答えは、なかなかに難しい。私たちは、常にこの二つの命題の間で揺れ動いている。社会に属しながらも個性を、自分らしさを希求する。しかし、それを獲得したら、社会との摩擦は不可避である。この葛藤からは、この二律背反的世界からは、決して抜け出すことはできないのだろうか?


 社会に迎合・同調する生き方を、私は否定できない。しかし、私が最も危惧することは、周囲に流されていることに「無自覚的」な人間である。一抹の疑念も持たずに、社会に追従する人間である。彼は自分の物差しを投げ捨て、いや、その存在すら忘却し、他者の、不鮮明な、あやふやな物差しに自己の拠り所を希求する。


 ひるがえって、私は、自己の物差しに、つまり、私自身に拠り所を求める人間であり続けたい。私が正しいと判断した事に、なんびとかが、「それは違う」と言ってくれば、そこで再び一考する。その結果、彼が正しかったと判断すれば彼の論に賛同し、それでも私が正しいと思えば、断固として譲ることはできない(状況によって、表面上は譲ることはあるだろうが)。


 総括して私が思うことは、大学において自己と自己とのぶつかり合いというものは、ほとんどないということである(もちろん殴り合いのことではない)。理性的に対話する術を、私たちは中学・高校の授業で習ってはこなかった。批判されればすぐ感情的になり、高圧的な態度にうってでる人間が膨大に存在することは憂うべきことである。


 私が対話を試みた、私より年上の人間は、まず間違いなくこういう態度を取る傾向にある。年を取れば偉くなるとでも思ってるのだろうか?そのあまりにもおめでたい短絡的思考に、私はただただ脱帽する他ない。