道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

世界は絶対的に相対的たらざるを得ない。

人とは社会的動物であり、世界とは大小様々な数多の社会が重なりあって形成されているものであり(たとえば国家は一つの大社会であると言える)、社会とは人と人とが、細胞のように結合や分離を繰り返し、関係して形成されるものである。僕達は自分自身から逃れることができないのはもちろんのこと、自分以外の人からも逃れることができない。文字通り、僕達はこの世界で1人では生きていけない。

 

周りには自分より優越した、価値のある存在である他者がいたり、逆に、自分より劣った、価値のない存在である他者がいる。周りには常に、敵になり得る他者がおり、逆に味方になり得る他者がいる。その混交した他者たちとの関係性の中で、つまりその社会の中で僕たちは生きていかざるを得ない。だから、世界とは、絶対的に相対的たらざるを得ない。

 

僕たちの価値は「他者との関係性の中で」相対的に決まる。例えば僕の顔面は芸人の世界で言えば、「比較的」イケメンの部類である。それは芸人界にそれほどイケメンな他者がいないからである。しかし、また違ったホストの世界であれば、普通か、わりとブスの部類になる。一つの世界ではイケメンたりえる僕の顔面は、また違った世界ではブサイクたりえる。一つの世界では価値のある顔面も、もう一つの世界では価値のない顔面となる。これが、相対的な世界である。

 

ありていに言ってしまうが、僕よりブサイクが多い社会であれば僕は相対的にイケメンになれるし、逆に僕よりイケメンが多い社会であれば僕は相対的にブサイクになるということだ。イケメンかブサイクかという価値は客観的に数値化できるものではなく、判断するのは人それぞれ個人的趣向、タイプによるところもあるが、それを考慮するとさらに複雑な話になるので今回は便宜的に度外視している。

 

相対的な世界は、非常に不安定なものである。僕は自分の顔がイケメンであるか、ブサイクであるか、分別のある人間なので、他者の評価をかんがみて判断したいと思う。芸人界ではイケメンだと言われていても、ホスト界では普通、あるいはブサイクと言われる。一体どちらの評価を信じて生きればよいのだろう。僕は思い悩む。しかし、畢竟すると、思い悩むことはごく当然であり、それが正解の感情なのである。何故ならば、僕たちの価値は「他者との関係性の中で」相対的に決まるからである。この世には絶対的イケメンも、絶対的ブサイクも存在しない。

 

相対的であるというこの考察を、今になって思い起こしたキッカケは、「頭脳王」という一つのテレビ番組を見てからだ。その番組はクイズ番組で、僕が見たのは決勝戦で、前回王者の医学部の男子学生と、挑戦者の医学部のイケメン学生がサシで早押しクイズをしているところだった。彼らは日本屈指の頭脳を持つ学生で、確か京大と東大の学生であった気がする。

 

番組的には、そんな彼らの人知を超えた頭脳から導き出される答えに対して、「どうしてそんなこと分かるの?!」的盛り上がりを見せている構図だった。しかし、僕が一番印象的に思ったことは、頭が良すぎてどうかしているのはもちろんなんだが、前回王者の学生と、挑戦者のイケメン学生の相対性が、ドラマチックに描き出されているその光景にについてである。

 

その世界には、彼ら二人しかいない。彼らは日本の学生の中でもひと握りの、トップ中のトップの頭脳の持ち主である。東大や京大という選りすぐりの高偏差値の学生をあつめた社会の中でも、トップに君臨する人種であろう。しかし、今、この世界には、彼らは二人しかおらず、どちらかが勝ち、どちらかが負ける。どちらかが一方よりも頭が悪く、頭が良い。

 

勝戦の経過としては、前回王者がほぼほぼ劣勢のまま進み、挑戦者であるイケメン学生が優勢であった。僕はここで率直に、前回王者がとても憐れだなと思った。王者はおせじにもイケメンとは呼べない学生だった。そんな彼が負けている。僕よりも何百倍も頭のいい、価値のある彼を見て、僕は純粋に憐れだなと思ってしまった。何故なら、そんな彼が相対して負けているのは、自分よりも頭も顔も良い、他者、敵であったからだ。周りもイケメン学生を応援していると思った。顔も頭も良い挑戦者が優勝した方が画的にも良いに決まっている。

 

その光景を見ながら、世の中、不条理だな。と思った。ずっと頭が良いことを自分のプライドとして、存在証明として生きてきて、この相対的な世界で、その価値を絶対的なものに近づけ続けてきて、才能もありながら努力も続けて、他者を劣位において、みんな頭わるいなって優越感も感じたりして、トップに君臨していた、そんな王者が、自分より頭も顔も良い挑戦者に、二人だけの世界で負けようとしている。二人の世界だから負けようとしている。二人ともすごいのに、僕たちの社会からしてみたら、二人ともすごいのに、彼は今、二人だけの世界で、自分より価値のある人間に、惨めにも屈辱的に負けようとしているのだ。

 

僕たちは結局、この相対的な世界で、不安定ながらにも生きていくことを強いられている。これはある種の宿命であり、それを絶望ととるか、希望ととるか、ありのままのもとして受け入れるかは、僕たち自身の自由であることに違いはない。

めでたくても、めでたくなくても

読者諸賢、2018年、新年明けましておめでとうございます。

と、まずはていとして祝わざるを得ないが、私は知っている。実は既に予見してしまっている。またどうせなんの変わり映えもない、だらっとゆるい一年という日常の連続性の中に身を埋め、精神を鈍磨させてゆく自身の姿を。

変わりたいと願っているのに、結局変わろうとする努力もせず、厳密にはするにはするが、習慣化させるには程遠い、ほどほどの努力、努力と言えぬほどのスズメの涙程度の努力でゼェゼェ息をあげてその場にへたり込み、新年だから、節目だからという心機一転の切り替えも、結局は長年飼い慣らし、肥大化させてきた己の怠惰に飲み込まれて雲散霧消することを、私は既に予見している。

が故に、私にとって新年はあまりめでたいと思えないし、日常の延長線上にあるものだし、カウントダウンも一人で家でどん兵衛のそば食べながら迎えたし(しかもちょうど電波が悪くてテレビがつかなかった!)、人様にツイッターやインスタでアピールできるような甘美な年末も送ってなかったし、あけおめラインも誰からも来なかったし(本当は1人からきたが誇張して0にしている)、ましてや年賀状なんて来るわけもないし、世間の新年も盛り上がって行きましょうムードから1人取り残された感じでスタート切ってるし、なんならまだクラウチングからスタート切ってないしで、とにかく、とくにめでたいことはないですけど、ていでおめでとうと言っています。

あ、でも明後日の1月6日に28歳の誕生日を迎えるので、おめでたいことはありますね。あ、でもやっぱり、正直もう年取りたくないし、ホストって20歳前半の後輩がほとんどで、28歳とかほぼほぼいないんですけど、数名しかいないんですけど、もう若い後輩見ると本当に羨ましいし、大学時代に戻れること頻繁に夢想するし、俺、今まで何してきたんだろうって思うし、まあ頑張って勉強してたんですけど、だとしたらこの今現在の売れない芸人売れないホストの境遇なんやねんって思うし、だから結局年取りたくないんでめでたくないですね。

けどそんなもんひっくるめて、めでたいもめでたくないも全部ひっくるめてめでたくありたいと思うので、是非皆様、新年も何卒宜しくお願いします。

ツイッターもやってるのでフォローして、僕の誕生日におめでとうのメッセージ送って下さい。あけおめメールとハピバメール0だと流石に早々ニューイヤーメンタルブレイクくるんで。芸人としてブレイクする前にメンタルがブレイクするんで。宜しくお願いします。

Twitter @hondy_kenty

男はセックスの事をエッチと言うな。

これは僕の至極個人的なポリシーというか、義憤というか、なんでそんなことに突っかかるのかと、客観的には全く理解されないことなんですが、僅かながらにも共感者がいることを切に信じて、ここであえて声を高らかに上げて宣言します。

わたくしは、

 

 

セックスの事をエッチと言う男が許せない

 

 

ゆめゆめこの信念を曲げることが僕にはできません。何故、セックスのことをエッチと言う男子を許せないかと言えば、これは理屈と言うよりもほぼ感情のニュアンスになってしまいますが、なんか可愛い子ぶってる感があるからです。男子なのに女子っぽく、自らのむき出しの性欲を可愛さでコーティングしている感があるからです。嗚呼、男子なのに。ですから、もちろん別に女子がセックスのことをエッチと言うことに対しては、何ら問題ありません。だって女子だもん。

 

ゆえに、同様のニュアンスの問題として、僕は男子が

 

 

キスの事をチューと言うことが許せない

 

 

のはもちろんの事、

 

 

ハグの事をギューと言うことも許せない

 

 

のであります。だいたいキスをチュー、ハグをギューってねえ。というかチューとギューに至ってはもはや

 

 

 

擬音

 

 

 

であり、セックスをエッチと言い表すよりも、より間接的表現というか、乙女感が余計に増してくるというか、もうそんなに女子とのスキンシップの表現方法を擬音でまとめて可愛くしたいなら、

 

 

 

セックスの事はエッチじゃなくてパコパコって言って。

 

 

 

ギューからのチューからのパコパコって言ってよ絶対!

隣の席の女の子は自分のこと好きになる説

僕は中高男子校で育ったので、小学生の時以外は隣の席に女の子はいなかったんですが(大学生時代にも女の子はいたが、クラスと言う固定的な空間はあまりなく流動的だったのでカウントしない)、だから、僕の中の乏しい経験で講釈を垂れるのはわりと憚れるんですが、そこでふと感じたことは、

 
 
隣の席の女の子、気付いたら俺のこと好きになってる
 
 
この一点の確信に尽きます。僕と席が隣になった女の子は気が付いたら僕のことを好きになっていて、一年に4回か5回ほど席替えをした覚えがありますが、そのことあるごとの席替えで僕の隣の席に座ることとなった女の子4~5人は総じてそれぞれ僕のことを好きになっていたという確信があり、僕の中ではそれが当たり前のこと過ぎるあまり、
 
 
小学校あるあるのうちの一つ
 
 
としてカウントしていたふしがあります。これは僕個人の個別具体的な事象(僕があまりにも魅力的な人間なので、それを間近で見ている異性が無意識的に惹かれていってしまう)というよりは、ある程度一般化が可能な事象であると考えていて、それ故に今回タイトルを「~~説」と銘打っている訳であります。
 
何故一般化できるかと言うと、そもそも、固定的な空間でほぼほぼ毎日顔を合わすという状況は学生時代特有で限定的なもので、小中高の12年間以外ではなかなか経験することのできない特殊な状況であるということが言えると思います。
 
クラスという形態ですら固定的で継続的なわけですから、さらにその空間内において最も近い存在者(隣の席の女の子)は誰よりも自分と濃密に時間と空間を共有することになります。
 
よくある心理学的な話で、何回も同じ人と出会うとその人を意識しはじめるというのがあって、だからどんどん会うようにしましょうということなんですが、その状況を極言すれば、まさに隣の席の女の子ということになるでしょう。より長い時間、お互いに時間と空間を共有することは、関係を深めるために、人を好きになるために、非常に重要なファクターであると言えます。
 
そして、小学生時代、隣の席の女の子を絶対的に魅了し続けてきた僕から皆さんに、告白したいことが一つあります。
 
僕は当時、隣の席の女の子の心を射抜くプロフェッショナルとして無意識的に天狗になっていたきらいがあり、席替えの時に自分の隣の席を「マイハニー・プレミアムシート」として勝手に認知していたきらいもあり、そうやすやす誰にでも僕の隣に座らせることはできないと大上段からクラスを睥睨しておりました。
 
そして迫りくる席替えの時、まずは女子がクラスから出され、クラス内には男子のみが残り自分の席を決めます。これは誰がどこに座っているかを女子に特定されないためであり、完全にアトランダムで席を決めるというシステムでありました。
 
そして、その席は既に予約済み(誰が座るかは分からないが、その席には男子の誰かが座ることが分かる)であることを女子に知らせるために、男子生徒はみなそれぞれ自分の手荷物(筆箱、てさげ袋、etc)をその席のどこかしかにセットするというプロセスがありました。
 
このプロセスに欠陥があることは誰の目にも明らかであり、というのも、その手荷物が誰のかを女子が判別できさえすれば、その席にどの男子が座るのかというのは事前に把握できてしまうからです。
 
当時の僕はこのプロセスの欠陥にいち早く気付き、そう簡単に俺の隣には座らせまいとする天狗心が躍りに躍り、結果として、てさげ袋をいわばフェイク(いわば釣り餌)として用い(実際にてさげ袋がかかった席には違う男子が座る)、僕の本当の席はMONO消しゴムを机の上に置いた席となりました。そして、一旦男子がクラスから出され、女子がクラスに入りそれぞれの席を決めます。
 
 
いざ!!選別の時!!!
 
 
そう心の中で叫び、先生の「それでは男子のみんなも入ってきてください、女子はそのまま席に座っていて大丈夫です」という言葉と共に僕はクラス内をゆっくり睥睨しました。
 
そこで僕は愕然とします。僕のフェイクてさげ席の隣に、僕がかねてから恋慕の念を抱いていた女の子が座っていたのです。その女の子は目を輝かせながら口パクで隣の席を指さし、「ここ?」と僕に向かって伝えてきたのです。
 
 
そこじゃないィ!!本体は別にあるゥ!!!
 
 
僕はそこで、自分の犯した大きな過ちに気付きました。自分が尊大に振る舞ったせいで、フェイクてさげなぞという訳の分からない障害物を設置したせいで、本来獲得できた幸せをも無に帰してしまった。そして僕は、もしも自分が天狗にならなければ実現できた彼女と隣の席どうしの幸福な生活に思いを馳せていました。
 
 
 
あの子、絶対僕の女になってのに!!!(血の涙を流しながら)

人生で初めて女子に胸ぐら掴まれる

蒸し暑かった夏も終わり、大分過ごしやすくなって来た今日この頃ですが皆さんはいかがお過ごし。もう九月も終わりを迎えつつあり、今年も残すところ三か月という頃合いになって参りましたが、、、あ、そうそう。そう言えばつい先日、私、人生で初めて女子に胸ぐらを掴まれたんですが、

その経緯をこれから話して行きたいと思います。

 

私は売れない芸人をしている傍らに、アルバイトで売れないホストもしているんですが、そのホストクラブに初回でいらっしゃったお客さんがいました。そのお客さんは20代前半位で、結構飲み慣れている感じで、何よりお酒が強い方でした。

 

そして当の私も人一倍お酒が強いと自負している誇り高き万年ヘルプですから、そのプライドを示すべく、「いや!俺の方が酒強いから!」と煽りながら、結果として彼女との飲み合いをするという運びになりました。

 

営業が終わる少し前の来店でしたので、時間としては一時間くらいでしたが、ちょうど鏡月のフルボトルを一つ空けたくらいの時間で、勝敗としてはイーブン、決着つかずという形になりました。

ただ私はこの段階で既にだいぶ酔ってたんですが、何をもって負けと定義するか、それは一方が他方に対して「もう飲めません、負けました」と宣言することに他ならず、どれだけ酔っていようがその言葉は決して言うまいと心に決意した私の見上げた三流ホスト魂はここぞとばかりに火を噴きはじめ、「まだ俺たちの戦いは終わっていない。アフターで飲みに行こう」と彼女に提案しました。

 

アフターというのは、ホストがホストクラブの営業終わりに、その日来店してくださったお客さんと会うことを言います。言うなればプライベートな時間のようなもので、ご飯に行ったり、カラオケに行ったり、また飲みに行ったりなどして過ごすことを指します。

 

彼女には、お気に入りというか、仲良くしゃべっていた私の後輩のホストが一人いて、その子が付いてくるなら行くと彼女は言いました。ですので、私は彼を連れて営業が終わってから彼女に会いに行きました。

彼女はどちらかと言えばポーカーフェイスで、表情を見ただけでは酔っているか否か判別できない人種でした。ひるがえって私は前述通りだいぶ酔っていて、後輩に至っては絶賛「ちょっと吐いて来ていいすか?」状態だったので、これは満身創痍の出陣になるぞと再度心を決めました。

 

二軒目の飲み屋では二時間飲み放題を注文し、ただひたすらビールを飲み続けていました。このあたりからだいぶ記憶がまだらになりはじめるんですが、僕の中ではまだまだ戦えるという確固たる自信がありました。その自信を支えるのは、かれこれ5年を数える僕の圧倒的売れていない故に伸びしろしかないホスト人生で積み上げてきた圧倒的経験値に他ならず、そんじょそこらの若娘に負けるはずがないという向こう見ずな矜持でもありました。

 

そして三軒目のバーでは、後半の記憶がバッサリ抜け落ちており、どれくらい酔っていたのか判別する事象を挙げるとすれば、トイレで用を足したあと洗面台の鏡越しに映る自らの姿を他者と見誤り、鏡に映る自らの顔面に指を差して目を見開きながら「おいなに見てんだテメェ!!」と密室で自分で自分に凄む程度に酔っていました。今にも消えてしまいそうな2%程度の理性の残滓の中で僕は、「これはマズイ」と思いました。もう負けでいい。ってかもう負けでいい。そもそもお酒どっちが強いか勝負とかしょうもないことアラサー男子すべきじゃない。もう早く帰って寝たい。一通り吐いてから寝たい。

 

三軒目のバーを出た時には既に日が昇っており、どれだけの時間飲んでいたんだという感慨と共に疲労感を感じました。そしてそのバーが入っていたビル前の路上で彼女と別れを告げ、嗚呼頑張ったし疲れたなと吐き出しふと横を見ると一緒に連れてきた後輩がほぼ寝てました。僕は「え、起きてる?」と彼の頬をぺちっとはたきました。

 

 

 

「ねぇ!!!!」

 

 

 

っ?!?!

 

 

 

「私、暴力振るう男大嫌いなんだけど!!!!」

 

 

 

?!?!?!

 

 

 

吐きたくなるほどの酔いと疲労も相まってはいたと思いますが、僕は本当にその一瞬、何が起きたのか皆目把握できませんでした。ただ僕の目の前には、般若のような形相をした、20代前半の、身長も僕よりは幾分も低い、さっきまで一緒にお酒を飲み交わしていた女子が僕の胸ぐらを確固とした力で掴んでいたのです。

 

彼女は僕たちと一旦別れてから、道路を1つ渡って向かいのコンビニ前あたりにいたと思います。そしておそらくですが、振り向きざまに、僕が後輩の頬をぺちんと叩く光景を目の当たりにしたのでしょう。彼女はその光景を見るや否や怒号に似た声を発したのちに、一度渡った道路を再び戻って来たのです。なんで戻って来たかって?僕の胸ぐらを掴みに来たんです。

 

僕は気が動転しながらも、まずはじめに「女の子ってわりと力強いんだな」と感心しました。だって上半身全然動かせねえんだもん。彼女は僕の真正面、至近距離で暴力が絶対的に許せないこと、つまり僕のことが絶対的に許せないことを胸ぐらを掴みながら怒号をもって僕に主張してきます。彼女の胸ぐらを掴む力もさることながら、その胸ぐらへのねじり具合も常軌を逸しており、控えめに言ってもトリプルサルコウほどのひねりがありました。

 

僕はただひたすら、彼を殴ってはいないこと、そもそもが誤解であること、ただ、僕がしたことと言えば、優しくソフトかつジェントルにぺちんと彼の右頬をフェザータッチで一叩きして肌と肌が触れ合ったこと、いわば、

 

前戯ビンタ

 

したことを伝えましたが、彼女は聞く耳を持ちません。目線を外すと(彼女から見たら暴力被害者である)後輩が僕たちを見て笑っていましたが、その後輩を見るや否や彼女は「笑うな!」と一喝します。

 

 

 

キミは一体何と戦っているんだ。

 

 

 

そして、断崖絶壁にジリジリと追い込まれて行くように、彼女は僕を後ろへ後ろへと胸ぐらを掴みながら押していきます。僕は今から本当に崖から落とされるんじゃないかと錯覚するくらいに彼女の底知れぬ憤怒を宿した表情には説得力がありました。そして僕の後ろにはたまたま割と高めの段差があり、無論それが見えない僕は結果として盛大に後ろへとコケてしまいました。

 

一瞬何が起きたか分からなかったですが、ふと目の前を見ると彼女が依然として僕の胸ぐらを掴んでいます。構図として、パッと見ただけであれば、よく少年漫画であるようなちょいエロ学園モノで、女子生徒と主人公の男子生徒がお互い学校に遅れまいとダッシュしていて、曲がり角でぶつかってしまい倒れてあわやキス寸前的な構図だったはずです。

 

 

ただ、こっちの人般若の顔してますし。

 

 

僕、ケツ打ったあと、後頭部もちょっと打ってますし。

 

彼女がどういった環境で育ってきたのか、どういった経緯で暴力を極度に嫌いになったのかは皆目知り得ぬことですが、僕は彼女の胸ぐらドンの一連の行動を見るにつけ、

 

 

これこそ暴力なのではないか

 

 

これこそがキミの忌み嫌う暴力なのではないか

 

 

自ら忌み嫌う暴力をまさに自らの手で行使してしまっている自己矛盾、己こそが正義であると盲信しているその独善的な不正義、そのただ中にキミは身を投じているのだという、ある種の

 

 

 

哲学的問い

 

 

 

の前に立たされた僕は、時間にして30分ほどの胸ぐらドンを体験したのちに、最終的には力なく彼女との(気持ちとしては)今生の別れを告げました。彼女は最後の最後まで般若でしたが、この白昼に行われた路上での一連のアクシデント、後輩に後日聞いたところによると割とオーディエンスがいたらしいのですが、その方たちに僕達は一体どのように映ったのでしょうか。

 

恐らく可能性としては、彼女の人格を否定するレベルで僕が彼女を罵倒した結果、彼女に逆切れされているように映ったかもしれませんし、あるいは、浮気が発覚した彼氏が彼女におもいっきし詰められているように映ったのかもしれません。

ただ、蓋を開けてみると原因は単に、僕が立ちながら寝ている後輩に前戯ビンタしただけです。

 

帰りの道すがらに、最悪の日だったなと思い返しました。わざわざアフターをしてまでお酒代を出して、重度の二日酔いになって、吐いて、結果として胸ぐらを掴まれて転んで怒号を浴びせられる一日を。

 

「先輩、服のそこやぶれてますよ。」

僕は「えっ!」と胸ポケットの辺りを見て驚いたのちに力なく笑いました。

上を向いて歩こう。そして家に帰って下を向いてトイレで吐こう。暴力はアカンという気持ちを込めながら。

学歴について

学歴について僕が語りたいことはいくつかあります。そもそも学歴というのは、個々人の社会的価値をはかる大きな一つの尺度であり、それが高ければ高いほど社会的な力を有する(あるいは発揮しやすい)ものだと思います。

 

基本的に社会的に勝ち組と謳われているのは、いい大学を卒業して誰もが聞いたことのある大企業に就職している人種だと考えられますし、例えば結婚する場合にも、両親や親族がまず第一義的に関心を向けるのはその男性ないし女性がどこの大学を卒業し、どこに就職をしたか、ということになると思います。

 

そしてそんな僕の最終学歴は慶應義塾大学法学部政治学科2012年卒なんですが、僕は一度たりともその自分の学歴を社会的価値のあるものとして認識したことも、執着したこともなく、ありていに言ってしまえば、気が付いたら息をするように入学していたということになります。

 

僕が慶應大学を卒業後に売れない芸人&売れないホストのレールに自らの意志で乗ったことからもお分かりのように(売れていないのは本意ではない)、僕は自分の学歴に対してなんの頓着もしていません。もし仮に学歴に頓着していたのなら、まず芸人の道には進んでいなかったでしょう。

 

そういう僕の目から見て、非常に特異に映ったことがあります。たとえば僕がふざけてある人の学歴(自分よりも低学歴)を、自分の高学歴を盾に小馬鹿としましょう。「え?そんな大学行って、なんで自らの経歴を自ら汚すの?」と言った具合に。そうすると、彼は急に血相を変えて憤怒の色をあらわにしながら、「学歴だけ高くても人間性ははかれない。肩書きにしかすがれない、中身空っぽの男だキミは!」と反論してきます。

 

僕はその時に、どうしてこんなにも急激に怒るのだろう、と思いました。ちょっといじったくらいで、なんでこんなに人間性を否定されなければならないのだろうと。それから少し経って考えていたところ、僕がはたと気が付いたのは、学歴を馬鹿にされることは彼にとって「人間性を否定」されたくらい重い言葉だったのだ、ということです。

 

つまり、彼の中で、学歴という社会的価値はとてつもなく大きなものであり、そうであるが故に、人間性を否定されたという強い拒否反応として僕に言い返してきたのです。ひるがえって僕は、学歴に社会的価値をあまり感じない人間ですから、学歴いじりというのは僕にとって、ほぼ確実に勝てるディスりカードの一枚くらいでしかなく、結果として僕と彼の温度差、距離感をとても特異に感じたのです。(蛇足ですが、学歴を持たず、さらに曖昧模糊とした人間性という概念にすがっていた彼の人間性は果たしてどうだったのでしょうか。)

 

僕はその一件で、社会が学歴という価値を見る目と、僕自身がそれを見る目との間にだいぶ大きなギャップがあるなというのを感じました。

どちらかと言えば僕は、人を学歴という属性だけで見て、より高ければ高いほどよいと感じ、阿諛追従する俗物的な感受性を忌み嫌っています。ですから、たとえば慶應卒の同級生などが学歴という大きな社会的価値のみを盲信し、さもそれが全ての絶対的な価値尺度だという態度を取っていた場合、虫唾が走ること請け合いです。そういった空間にはいたくないですが、悲しいことにそういう感受性が世の中の大半を占めるのは事実です。

 

僕は今現在、売れない芸人と売れないホストをしている訳ですが、ときたま、ホストクラブに大学生がくることがあります。お笑い芸人の世界もホストの世界もそうですが、そこにはほとんど大卒の人間はいません。つまり、社会的に見れば低学歴層であることは一目瞭然であり、それを意識的にでも無意識的にでも感じている大学生(つまり、学歴を絶対的価値として盲信する大学生)の態度は少し上からというか、ニュアンスで感じられる程度ですが、僕たちを馬鹿にしている、横柄な感じがしました。

 

学歴を鼻にかけているな、と僕は感じました。接客中に、大学生なんですかと質問し、どこの大学ですか、サークルは何をしてるんですか、などと掘り下げているうちに彼女はおそらく僕も大学に通っていたのだろうと思案したと思います。

もう少しだ、と思いました。もう少しで彼女は僕に、「どこの大学行ってたんですか?」キラーパスを出してくるはずだ。自分から大学名を言ってはいけない。その答えはあくまでキミの質問への返答と言う形で提示しなければいけない。はやく!はやくパスをくれ!俺をバカだと思ってさぞ見下していることだろう。その俗物的な価値観に毒されて、さぞ俗物的生活を満喫しているに違いない。しかし!キミのパスでその世界は音を立てて崩れ去るであろう!嗚呼早くキミが呆気に取られているおめでたい顔を拝みたい!キミがその俗物的価値観に支配されているなら支配されているでよい!キミがそこの世界に安住し、他人を上から目線で見下ろすならば、私もあえてその同じ土俵に降りて戦おう!さあ!早く!質問をするんだ!さぁさぁ!!

 

 

「どこの大学行ってたんですか?」

 

慶應義塾大学部法学部政治学科2012年卒です」 

 

「「MARCH風情が、図に乗るなよ!」」

ヨガサークル入門

いまからする話は私が大学生の頃の話である。私は当初、慶應義塾大学(単に大学と明記すればよいにも関わらず、あえて慶應と言うのは、自分の学歴をひけらかしたいがためである)のダンスサークルに所属していたが、あまりにもリア充過ぎる集団であったために、中高男子校出身の私の適性には合わず、およそ一年ほどでそのサークルを後にした。


どのサークルにも属さない、無所属となった私は焦燥感に駆られていた。何故なら、大学という空間は流動的であり、サークルという固定的な共同体に属さなければ一人孤独感にさいなまれ、非リア充化を免れることはできないからである。


私はリア充になりたかった。なるほど確かにダンスサークルでのリア充化という可能性は断たれたかもしれないが、私はどんな手段を使ってでも、泥臭く這い上がってでも、自身のリア充化という悲願を成し遂げたかった。


女子にチヤホヤされたい。


私の魂がそう叫ぶ。私はなりふり構わず入学当日にもらったサークル一覧の冊子を開き、チヤホヤチヤホヤと呪文の様に唱えながら一心不乱にページをめくり続けた。女子率高し女子率高し、私のそのつぶやきは一つのページの前で止まった。


ヨガサークル


その黄金の文字列を見るにつけ、ここしかない、ここが私の求めていた唯一の桃源郷であるということを悟るに至った。私は早速、そこに書かれていた代表のメールアドレスにメッセージを送り、体験でヨガりたいです、可及的速やかにヨガりたいですという旨を伝えた。


私は不安と緊張に加え、この下心満載の行動は果たして人間として倫理的に正しいのかといったいくばくかの背徳感を胸に秘め、しかし、リア充になる為には通らねばならぬ道だ、なりふり構わず行動するのみと自らを納得させヨガをする体育館へと向かった。この一歩がリア充への道となる、私はそうつぶやき体育館の扉を開いた。


そこは見渡す限りの花園であった。正面を見ても女子、右を向いても左を向いても女子、後ろを向いても右斜め前を向いても左斜めを向いても全方位的に女子しかいない。


私は歓喜した。私が求めていた空間が、眼前に広がっていたからである。私は自身がリア充になれることを確信した。やはり、人のあるべき姿とは、第三者の目線や、周囲の罵詈雑言などには聞く耳を持たず、自らの信ずべき道をただひたすらに、無批判かつ実直に突き進めば良いのだと。道徳や倫理感を超越したところにしか存在し得ない境地に、私は達したのだと。


しかし気付いた頃には、私は言葉が出なくなっていた。これは感極まって言葉が出なくなったというたぐいのものではない。あまりにも女子が多過ぎて、その圧倒的数に精神的に失禁し、ただの筋金入りのシャイボーイに成り下がっていたのである。意味が無い。皆目意味が無い。リア充になる為にここまでの行動力を見せたのにも関わらず、その圧倒的数の女子を見るにつけ何もしゃべれなくなってしまったのである。私の信念はいとも容易く崩れ落ちた。


女子とのコミュニケーションは全くなくともヨガのレッスンは進んだ。私を全方位的に取り囲む女子達と共にヨガのレッスンが始まった。ぶっちゃけこれだけでも幸せではあった。彼女達は私が純度100%の下心で入会してきた男子であるともつゆ知らず、少なからず、え?と怪訝な顔を浮かべていた女子は差し当たりシカトし、みな総じて真面目にヨガをしている。ふと、私のよこしまな情念は、彼女達の美しい身体と精神によって浄化されてゆくような気がした。


ヨガのレッスンも佳境に向かい、ヨガの先生が、次は肩甲骨を伸ばしますと言ってエジプトのスフィンクスの様な格好をした。肩甲骨を伸ばす為にかなり前のめりになったスフィンクスのようで、お尻を後方に突き出す形をとった。


私は先生に言われた通りに、まずスフィンクスのように四つん這いになり、そのあと前傾姿勢をとってからお尻を突き出し前を向いた。前を向いた途端、私は絶句した。



そこにはお尻があった。



私の前でヨガをしていた女子の圧倒的おしりが、圧倒的近さで、圧倒的なエロさで私の前に突き出されて現れたのである。ヨガをする時の服装というのは、上はTシャツのようなラフなものだが、下はわりとピッチリとした、身体にフィットした、つまり、身体の曲線が露わになるものである。ありていに言ってしまえばピチピチである。


つまり、そのピチピチの状態のおしりが私の眼前に圧倒的近さと圧倒的エロさで現れ、その、おしり付近の、なんというか、その、曲線の一つ一つというか、その、クッキリ鮮明に、あの、お茶を濁すようであれだが、つまり、その、デリケートゾーンが、ウェルカム状態だったのである。


私は確かに、自身のリア充な生活を思い描き、そのヨガサークルに入門した。女子との交流こそがリア充な生活を送る上で不可欠であると確信していたからこそ、女子率が高いヨガサークルに入る決意をしたのである。その過程でサークルの女子と仲良くなり、友達になり、飲みに誘い、青春を感じさせるランデブーなりなんなりのエロティシズムを期待していたとしても、その少年に罪はあるまい。下心満載の少年の心は決して咎められるべきではない。


しかし。しかしである。その私の前に存在する圧倒的おしりは、圧倒的近さとエロさで存在するそのおしりは、私の下心を超越したところに存在するものであった。あまりにもクッキリと鮮明に、絶対的に存在するそのおしりを前にして私は思わず笑ってしまったのである。


かかる圧倒的おしりと、圧倒的シャイさを見せつけられ、見せつけた私は、ヨガサークルにていとしては入ったものの、その後数回ほど参加したのちに、やはり圧倒的過ぎると思い至り幽霊部員化し、結局ヨガサークルを去ることになった。


私は結局のところ、リア充生活を勝ち取ることができずに終わったが、私があの桃源郷で見た桃尻は、私の脳裏から離れることは無い。