道化が見た世界

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おい、ブスって言うな。

男女のコミュニケーションにおいて、僕が長年、最も不可解極まりなく、理解に苦しみ、並々ならぬ義憤を感じているものがある。それは、男性が「ブス(笑)」と女性に言い、女性が「もう~ブスじゃないし(笑)」と返すじゃれ合いである。この男女のキャッチボールを100%肯定し、理解していると思っている人は、そもそもこの文章を読むモチベーションもないだろうし、読まなくてもいいんだが、ただそうした場合の唯一にして最大のデメリットは僕と友達になることができない。

何故なら、僕は女性に対して「ブス(笑)」と得意げに言う男が親の仇の如く嫌いだからである。さあ、それでは、ただいまより、そのにっくき男性側の問題点を列挙していきたいと思う。

 

 

問題点①

「どの面下げて言ってんだ?」問題

そもそも「ブス」という言葉は、噛み砕いて言ってしまえば、「あなたの顔は醜いです。」と、その対象者に表明することである。そしてその表明は明らかに誹謗中傷の類(俗っぽく言えばディスり)であり、その対象者が傷付くであろうことは当然予期できるし、そうであるならば、そうやすやす鹿のフンのようにポロポロと口に出すべき言葉ではない。

 

さらに、「ブス」と女性を中傷し、劣位に置く言葉は、その言葉を発した自己を相対的に優位に置く、つまり、「僕はブスではなく、それ以上の顔を持っています。簡単に言えばイケメンです」と表明したこととなる。たとえば、人にバカだな!と言った時、その人はその他者よりも自分の頭がいいことを暗に表明しているわけである。

 

つまり、人に「ブス」と言う行為は、自分の顔面がある程度整っている、なんならイケメンというおめでたいナルシシズムと、おかど違いも甚だしい身の程知らずの上から目線と、自分が優位に立ち主導権を握りたいと目論む下卑た下心とが、その男の精神に大前提的に宿されてなければ成立しないのである。この三点セットの醜き精神こそが、僕の心に聖なる義憤をともす主要因である。

 

そして、そのようなひどく独善的な精神と決別する為には、女性側も「もう~ブスじゃないし(笑)」なぞと生ぬるいじゃれ合い、愛想笑いをしている場合ではない。「お前、どの面下げて言ってんだ?」「ブスがブスって言うと余計ブスに見えるね」「人をブスブス言うブスは、己のブスを知らぬブス」「その顔面偏差値でナルシストとかゲボりそうなくらいキツイ」「お前のツラにもらいゲロしそう」「その醜悪なツラが生理的に限界過ぎて精神的にも肉体的にも失禁しそう」など、はた目から見れば強度がかなりある言葉を投げかけ、ショック療法をしなければ、彼らはそのおめでたい幻想から目を覚ますことができないであろう。

 

極論を言ってしまえば、「ブス」と人に言うことが成立する人間は、主観的にも客観的にも、自他共に認める確固たるイケメンでなければならない。そうでなければ、その男はすぐさま「お前、どの面下げて言ってんだ?」問題の範疇に入ることになる。最後にこの問題の結論として言えることは、

 

 

お前、吉沢亮じゃないんだから人にブスって言うな。

 

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問題点②

「そもそもしょーもない」問題

 世は広く、様々な職種があることは承知しているが、この社会には「ナンパ師」と呼ばれる人種が存在する。原則的に彼らは女性に声を掛けナンパし、ホテルまで行くことをゴールに掲げ、それに際するマインドセット、テクニックなどをブログなどのSNSで発信し、その講習や教材販売などでお金を稼いでいる人種である。

 

そのナンパ師界の専門用語に「ネグレクト(略してネグ)」という言葉があり、その意味を調べてみると、「敢えて相手に関心がない素振りを見せたり、批判的な態度をとる、けなすことで興味を引く様。失敗すると、ただ相手を傷つけて終わる結果となる。」とある。

 

これまで述べてきた「ブス」と人に言う行為は、このネグレクトで言うところの「けなすこと」に符合するが、普通に考えてみても「ブス」と人をけなすことはあまりにも低俗なネグである。(略して言ってみた)

 

容姿端麗な女性は、いつも周りに可愛い可愛いと褒められ、ちやほやされ、持ち上げられることに慣れているから、そこを逆張りして、敢えて可愛いと褒めたりしない、小馬鹿にしてみるといった正攻法の戦略の正しさは一理あるかもしれないが(ここでも「ブス」とけなすことは低俗で正しくないが)、どのようなネグレクトも、俗っぽく言えばディスりもイジりも、良質な褒めには一切敵わないという認識は必要である。

人は当たり前のように、褒められたら嬉しい生き物である。そもそもけなされて嬉しい人間の方が少数派であることをまず認識すべきである。そして次に、キミは人をけなす前に、人を褒めるという世界を知り尽くしたのかと僕は問いたい。

褒められ慣れている美人に対して、数多の他者の褒め言葉の追随を許さないほどの珠玉の褒め言葉を、褒められ慣れている美人でさえも、ハッと頬を赤らめてしまう褒め言葉を考えようとしたことはあっただろうか。その世界を深く知ろうともせず、つまり、多様で豊かな褒めの世界からはスッと身を引き、鹿のフンが如くポロポロと得意げに、醜悪なツラをたたえながら、ブスブスブスと呪詛のように唱えるキミはあまりにも滑稽ではあるまいか。更に言ってしまえば、しょーもなくないか?うん、そう。しょーもないんだよ。

 

「ブス」とシンプルにけなすことはあまりにも滑稽でしょーもない。なんの芸もない。知性を感じない。面白味がない。全てがない。どうせけなすなら、どうせディスるなら、どうせネグるなら、どうせイジるなら、もっとちゃんとする責任と義務がある。

 

僕がここで提案するのは、「褒めているようで、実はけなしている」という「褒めイジり」というジャンルである。シンプルに「ブス」とけなすよりは、いくぶんかマシであると考えている。以下にいくつか例を挙げてみたい。

 

1.「すごい可愛い!!ウチのママの次に!」

2.「ハリセンボンの可愛い方に似てるね!!」

3.「すごいモテそう!モンゴルあたりで!!」

4.「そのバッグ高そうでオシャレだね!何百円したの?!」

5.「肌の透明感がすごいね!イカみたい!!」

6.「スタイルめちゃいいね!毛を毟りつくされた後のアルパカさんだ!!」

7.「ジム通いとか意識高っ!スムージー飲み過ぎで酔ったことあるでしょ?!」

 

前半部分でベタに褒めつつも、後半部分でけなすことでツッコミを誘発しやすくなる作りになっている。貴方自身のセンスと知性とユーモアと、女性と前向きにじゃれ合いという向上心を持って是非「褒めイジり」にチャレンジしてみてほしい。

 

以上述べてきたように、主にこの問題点二つが、長年僕が抱いてきた義憤の正体である。褒めてばかりでは二人の心理的距離感を縮めることができない、イジったり小馬鹿にすることでその距離感を縮めることができるといった意見は一理あるが、その人達は果たして真に褒めの世界を知り尽くしているのだろうか。最後にもう一度だけ問い直したい。

 

僕は、女性に褒められただけでその人を好きになってしまうくらい距離感を縮められてしまう。褒められ慣れてない人間は褒めにめっぽう弱いのだ。そしてそもそも日本人は「褒め」慣れてないから、必然的に「褒められ」慣れてる人間が少数派である。

 

この記事を最後まで読んでくれたキミには是非とも、「ブス」と言って悦に入るしょーもない人間にではなく、褒めて褒めて褒め殺して、時には小気味良くいじったりもして、女性に喜んでもらえる人間になってほしいというのが僕の切なる願いである。

大事なのは外見?それとも中身?

男性と女性が飲み会などで織りなす、ありふれたコミュニケーションの中で、最もベタで安定的な質問、その当人が異性をどのような価値観で見ているかを計るためのジャブ的な問いかけ、それが「大事なのは外見?それとも中身?」である。

そのありふれた問いかけと同列に並べられるのは、たとえば、「好きな芸能人は?」「Sなの?Mなの?」「恋愛は追いたい派?追いかけられたい派?」などが挙げられるが、それぞれの質問にこれといって深い意味はなく、別に知ったところで感も無くはないが、その後の会話の足掛かりとしてはとても大事な、たかがジャブ、されどジャブな問いかけたちである。

 

そして、本日議論の俎上にあげたいのは、その中でも最初に述べた「大事なのは外見?それとも中身?」という問いかけであるが、単刀直入に結論から申し上げると、

 

 

 

どっちも大事

 

 

 

という絶対的真理があるということである。あまりにも当たり前のこと過ぎるがゆえに、読者諸賢よろしく、世間の皆々様はこの確固たる事実を忘却してしまってはいないか。かかる質問、というよりもはや愚問、がそこかしこで飛び交った場合においては即レスで「どっちも大事!」と声高に宣言することが最適解とならなくてはならない。

 

考えてもみてほしい。そもそも、何故、大前提として、「外見」と「中身」をそれぞれ両手に乗っけられて、

 

 

 

二者択一を迫られる窮地

 

 

 

に私たちは追いやられているのだろう。何故、どちらか一方を選んだ場合は、他方を捨てなければならないのであろう。

そして、例えば、この質問に続く答えとして、外見を選んだ場合は、「ああ、面食いなんだね」「イケメン好きだもんね~」「付き合ってた子みんな可愛いもんな」「上っ面しか見ないんだね」「中身はどうでもいいんだ(笑)」「異性を人としてちゃんと見てるの?」など矢継ぎ早にネガティブな言葉を投げかけられてしまう。というか現状、この質問を投げかけれた段階で、

 

 

 

「中身」と答えることが人間的に正解

 

 

 

であることは、どう考えてもおかしいと言うほかない。表面上は二者択一を迫りながらも(この段階で既に間違っているのだが)、その実は「中身」と答えるほかない質問はもはや質問ですらない。(こう言うと、自分は全然「外見」って言うけど(笑)なぞと自己顕示欲をこじらせた不穏な輩がぷつぷつと湧いてくるのだが、今私は一般論を語っているのであって、貴君の個人的傾向は絶賛知らんがな状態なのである。注釈せずとも理解してほしい。)

 

では何故、声高に当たり前のことを、絶対的真理である「どっちも大事」という答えを私たちは言えないでいるのだろうか。どうせ付き合うのなら、外見も中身もいい人と一緒にいたいと思うのは当然なのに、どうしてそんなにもいけないことだとみなされているのだろうか。

たとえば、私がなにがしかの飲み会で、かかる質問をされた時に、食い気味で「どっちも大事!」と喝破したとしたら、

 

 

「「身の程を知れ!!」」

 

 

と更なる圧でカウンターを食らうことになるであろう。つまりはそういうことなのである。この人間界で、外見と中身のそれぞれを二つとも同時に求めることは、いささか傲慢にうつってしまうのである。何故ならそれは、自分自身がパートナーに対して「完璧」を求めている人間であるという、ある種の自己表明になっているからである。

それはちょうど、テレビなどでよく目にする、30歳を過ぎた未婚の女性が結婚相談所でパートナーに求める条件として年収1000万、イケメン、高学歴、高身長、20代、を挙げていた時に感じるあの、何とも言えないため息の正体とも似ているかもしれない。

 

ただ、それがいかに身の程知らずな、傲慢なものだとしても、その欲求、欲望は真理であると思う。だからこそ、外見や中身を二者択一させるような愚問に対しては断固としてNO!と思うべきであるし、どっちも大事だろ!目を覚ませ!と喝を入れるくらいの気概は持ってほしい。

そしてその表明は、ひるがえって、自己をも呼び覚まし、常日頃から、外見も内面も磨いていこうと自身を鼓舞する叫びになるに違いない。

社会に承認されること

言うまでもないことだが、人間は社会に属さなければ生きてゆけない。そして、その社会によって自己が承認されているといった自意識が存在しない限り、その社会は自己にとって居心地の悪いものになる。

 

 ふと、直感的に感じたことはないだろうか。「この社会は私を必要としていない、私がいなくとも機能し得る社会である」と。この様に感じ取れる人間は、社会における自己の役割を意識的かつ意欲的に見出そうとしている人間であり、文化レベルの高い個であるといえる。

 

 私達は、何の為にこの世に生まれてきたのかという命題に対して、答える術を持たない。何故なら、私達が今こうして生きている意味や目的や価値は存在しないからである。しかし、私達はそれらをなんとしてでも見出そうとする。そうしなければ生きていく気力が無くなるからだ。だから、私達はこうも社会に承認されたいと望むのである。

 

 たとえば、高校の一つのクラスを想像してみてほしい。特殊な場合を除き、普通は誰もが、その「クラス」といった社会の中で、自己が有益な役割を果たしたいと願っている。有益なことを為すことによって、社会に承認されたいと思うのである。そうすることによって、彼の自尊心は保たれ、自己愛に溺れることもできるだろう。誰も、教室の隅で一人寂しく座り、周りから空気としてしか認識されない路傍の石にはなりたくはないはずである。

 

 そして、大概の社会は派閥化される。リア充リア充グループで固まり、オタクはオタクグループで固まり、陰気な人間は陰気なグループで固まる。彼らの間には確固とした隔たりがあり、それぞれ違った空間を創り出す。

 

 クラスには大概、クラス全体を席巻するメイン・グループなる派閥が存在する。社会に承認されたい欲が強い人間は、そのグループに自分が入ることを切に願うが、一方で、ほとんどの人間は、彼らが形成した派閥(オタクならオタクグループ)の中で満足をする。その中で自尊心を満たすことに成功する訳であり、閉塞感を感じることがない。彼らはメイン・グループに対する引け目も一切感じることがない。

 

 自己が属する社会に違和感を感じるということは、その人間は自己の役割を意識的に把握している(あるいは無意識的ではあるが何らかの形で把握している)人間である。私を例にあげれば、「人を笑わせる」ことが自己の役割である、ということになるだろう。

 

 私は、人を笑わせることによって、社会に有益に作用してゆきたいと望み、そして、そうすることによって私の自尊心を満たしているのである。故に私は、自分にとって居心地の良い社会を、自分自身が笑いを用いることによって形成したいと思っている人間である。

 

 そして、私が「自分を必要としない社会」と見做す社会は、それができない社会であり、その役割を果たしても無意味であると判断した社会である。

 

 そう考え出してみると、私がとある社会に存在することによって、その社会から出ていきたいと思っている人間もいる、ということもあるのではないだろうか。私が存在することによって、甚大な被害をこうむっている人間がいてもおかしくはない。

 

 現に私自身も思う事がある。この人間が存在しなければ、私はより有益に社会に貢献できたかもしれない、と。彼自身に罪の意識は全く無いだろうが、それは傲慢な鈍感力と言っていい。

 

 私は人一倍社会に承認されたいと欲する人間なのだろう。できることなら、私の知り合い全員に質問してみたいと思う。アナタは、社会に属する上で、どのようにして自己の自尊心を満たし、自己の存在意義を確かめているのかと。

 

人生の充足は、いかに自分が社会で承認されているかに大きく関わってくると言って良い。現在進行形で関わっている社会が、自己の人格を大幅に規定する。その社会で生きてゆく事が困難であると判断するのなら、そこから身を引くのも一つの手である。そうして、また新たな社会を見つけ出すか、あるいは自分自身で自ら創り上げるかの二者択一である。

ゾンビゲーム

今インスピレーションが天から僕の頭に降りてきて、凄い遊びを思いついてしまいました。その名も【ゾンビゲーム】。

 

このゲームが生まれるに至った本質的な部分、コアは、製作者の「女子がキャーキャー言ってワチャワチャしているさまが見たい」、「ゲームという枠組みにかこつけてささやかながらのスキンシップを図りたい」とする純然たる下心がエンターテイメントに昇華した結果です。

 

さて、日本でポピュラーな遊びに鬼ごっこや、ドロケイなどがありますが、ゾンビゲームはこれらに匹敵するゲームの位置付けです。では、遊び方を順に説明していきましょう。

 

1、まず始めにゾンビ役を決めます。ゾンビ役になった人は可能な限りゾンビになりきる必要があります。(例:白目をむく、足を引きずるなど)

 

2、その他のプレーヤーはゾンビから逃げる必要があります。ゾンビに捕まり、体の一部を噛まれた場合(ゾンビゲームの専門用語ではバイト【bite】)、そのプレーヤーは1分後に【ゾンビ化】します。ゾンビ化したプレーヤーは、今度は一般プレーヤーを襲います。

 

3、一般プレーヤーがゾンビを倒すためのツールに【ピストル】があります。手でピストルの形を作り、それを効果音と共に打ちます。手持ちの弾丸の上限は【10発】で、うち尽くすと、逃げるしかなくなるので注意が必要です。

 

4、ピストルの威力の高低は、【効果音】によって決まります。【バンッ】が一番オーソドックスな効果音ですので、威力は普通になります。ここでは、威力が強そうな効果音を出すことがキーになってきます。例えば、【キュイィイイイーーーン…チッチッチ…チュドオオオオン!!】などが挙げられます。普通の場合【ゾンビの頭に二発】弾が当たれば死にますが、チュドオオオオンの場合は即死でしょう。

 

5、一般プレーヤーが全員ゾンビになるか、あるいはゾンビを全て殲滅することができればゲームが終了します。最後まで生き残った一人と残りの全ゾンビが対峙する時にこのゲームの醍醐味、スペクタクルがあるといって言いかもしれません。あと、女の子がキャーキャー言いながら逃げる図もなんとも言えないエンターテイメントがあると言えるでしょう。

 

6、全一般プレーヤーが所有弾数を全て使いきった場合にゾンビが未だ存在していた場合、一般プレーヤーの選択肢は逃げる以外なく、実質の敗北になる為、ゲーム開始前に【制限時間】を設ける必要がある。

 

7、また、ゾンビと人間の総数の比率を決める【ゲーム難易度】を設定する。例えば、人間1:ゾンビ10の初期設定では【VERY HARDモード(感染必至)】、人間10:ゾンビ1の初期設定では【VERY EASYモード(Sorry for Zombie)】などである。女性の人間1:男のゾンビ10などの初期設定は、かなりの上級者設定であり、エンターテイメントの本質を理解していると言える。

 

8、一般プレーヤーは、【ピストル】というツールの他に【ワクチン】も所持している。使用上限回数は【1回】である。接近してくるゾンビの不意をついて【ワクチン注入!】と宣言し、【両手でピストルのような形を作り、それをゾンビに刺すことで】、【ゾンビを人間に戻す】ことができる。しかし、ワクチン注入時には、ゾンビに接近しなくてはならない訳だから、細心の注意が必要になる。

 

このゲームの深さは、効果音の自由度、ゾンビの多様性(勝手にボスゾンビを名乗り、不死身になるなど)など、様々な要素を付け加えてより面白くできることでしょう。ただし、女子がおらず男子しかいなかった場合はなにも楽しくならないことは保証します。逆に大人数ではなくても、男子1:女子1のサシでゾンビゲーム(無論男子がゾンビ役である!)をしても楽しいに違いありません。そこに女子がいればこそ。

 

と言うことで、皆さんもゾンビゲームで盛り上がりましょう!!

トイレのドアノックすな

ドアをノックするという所作は、礼儀作法・マナーとして広くあまねく私たちの日常生活に浸透しています。皆さんも、就活の面接会場に入る時や、兄弟の部屋に入る時、ある種、フォーマルでプライベートな空間に自分が入場する際に、ドアをノックすることがこれまで一度はあったであろうと思います。

 

ではそもそも何故私たちは、ドアをノックするのか。そう考えた時まず挙げられるのは、自分の存在をノックの音で明らかにするということです。ドアの先の空間にいるであろう他者に自分の存在を明示する。そして、そのノックには、「誰かいらっしゃいますか」、「失礼ながら今から入場します」という意味内容が含まれていると思います。ドアをノックせずに入場する人間を無礼だなと私たちが感じるのは、そう言った意思表示をせずに勝手な他者の都合で自分のプライベートあるいはフォーマルな空間を害されたと考えるからです。

 

さて、ドアをノックするというマナーについてある程度理解を深めていただけたと思います。が、本日の本題、私がこの度異議を唱えたいこと。それは、「ドアをノックする」という慎ましい礼儀作法がこの世に存在することは大変望ましいことではありますが、

 

 

 

トイレのドアはノックすな

 

 

 

この一言に尽きます。トイレのドアだけは絶対に、未来永劫、徹頭徹尾ノックすな。一体何故なのか。これからそれを説明していきたいと思います。

まず、そもそも、何故人はトイレのドアをノックするのでしょうか。先述した礼儀作法としてのノックの意味内容を踏襲するのであれば、それは、自分の存在を明示し、「誰かいらっしゃいますか」、「失礼ながら今から入場します」と意思表示したことになります。

ん、おかしいな?皆さん思ったと思います。本来の意味内容とはだいぶ食い違っているな、と。皆さんお察しのように、礼儀作法としてドアをノックすることと、トイレのドアをノックすることとは、一見同じ所作に見えますが、完全に対極に位置する、似て非なる行為なのです。

前者のノックは、文字通り礼儀作法にのっとり、謙虚で慎ましい所作でありますが、ひるがえって、後者のノックは、ただ単に

 

 

 

早くウンチがしたい

 

 

 

というむき出しのエゴイスティックな欲望を他者にぶつける為の、軽蔑に値する愚かな行為に他なりません。更に掘り下げて見ていくと、トイレのノックが「誰かいらっしゃいますか」の確認としての、礼儀としてのノックだとする意見もあるかもしれませんが、

 

 

 

いやいるに決まってるじゃん?

 

 

 

 

取っ手青いところ赤くなってるの見えるじゃん?

 

 

 

トイレのドアをノックする人間は、その個室に人が入っているかどうか真に分からないから、純粋な気持ちでノックをしている訳ではありません。そこには単に一つの欲望、今、他人がウンチをしているかどうかなぞどうでもいい。早くウンチがしたい。待っている俺がいるぞ。早くウンチして出てこい。という至極自分勝手な都合を表明しているに過ぎません。相手が個室内にいることを分かっているにも関わらず、自分の都合で早く外に出そうとノックする行為が許されるのは後にも先にも

 

 

 

アナ雪の雪だるま作ろう

 

 

 

の状況下でしかないことを僕たちは知っています。アナが姉のエルサに向かって、トントントトントン♪雪だるま作ろう〜ドアを開けて〜とドアをノックする状況下でのみ許される行為です。(最終的にはあのアナですらエルサに「あっち行って、アナ」と拒絶されてしまいます。)

 

トイレに入っているこちら側からすれば、ありていに言いますが、アナタがトイレに入れず、我慢できずにウンチを公衆の場でまき散らす結果になったとしても至極どうでもいいのであり、アナタはトイレの争奪競争からふるい落とされた負け組なのであり、トイレの現行の占有権は勝ち組である私に一任されている上、かかるトイレが空いていないのであれば、有無を言わずに空くまで待ち続けるか、他のトイレを探し求めて更なる争奪競争に加わる他に選択肢はなく、それをぬけぬけと、いけしゃあしゃあと、勝ち組である私の束の間の憩いの空間を、ノックという本来他者を尊重する為に生まれた行為をねじ曲げて己のエゴイスティックな欲望の発露として用いることによって、無思慮に奪い去り、おかど違いも甚だしい怒りと焦燥をそのノックの強さによって表明するその姿はまさに

 

 

 

クソの極み

 

 

 

に違いありません。更にノックされた側はノックされた側で、束の間の憩いの空間(三大束の間の憩いの空間としてベッド、お風呂、トイレが挙げられる)をせかされて奪われた怒りと、私なぞのビビり人間にとっては、顔の見えぬ他者が少なからずの怒りと共に外で待ち構えているという純然たる恐怖にさいなまれ、ウンチも満足に出すこと足らず、何故にこんなにもせかされているんだ、別に過剰にくつろいでいるわけではない。実家のトイレで便座に座して新聞を広げ、正面に貼り付けられた世界地図を時折見るなどして悠然緩慢にウンチをしている訳では決してない。私はただごくシンプルにウンチをしたいだけなのだ。クソッ!

 

そして、最もよく分からい風習が、トイレに入っている時にノックをされた場合、自分が入っているという意思表示の為に、ノックをし返すというものである。その様相はまるで、トイレ個室内でのっぴきならない状況が生まれていて、しかしそれを外界から目視することができない。その為の、生存確認としてのノック。大丈夫ですか、大丈夫ですか?!のノック。それに答える、はい大丈夫です、大丈夫です!!のノック返し。ノックが返ってこない場合は、何かしらの危機的状況下に置かれているに違いない!

 

 

AEDかよ

 

 

ちなみに私はノックされても決してノック返しはしない。理由はシンプルに意味が分からないからである。

私は真っ当な人間でありたいと思う。もし仮に自分の入った公衆トイレに既に先客がいて個室が閉まっていてウンチができないとしよう。もう漏れそうだ。間に合わない。他のトイレを探す猶予もない。あと数秒歩いたら漏れてしまうだろう。しかし目の前のトイレは閉まっている。怒りと焦燥が私を襲う。ただその一時の感情に任せて、私はノックをしない。他者をいたずらに侵害しエゴをまき散らす人間にはならない。その時私は、全てを受け入れ天を仰ぎ解き放たれた表情をたたえながらウンチをその場にまき散らす。私はそういう真っ当な人間でありたいと思う。

そふとわきが

のっけから何を言うんだと思われると思うんですけど、僕って

 

ソフトなワキガ

 

なんですね。ワキガにソフトとかハードとかあんのかよ、そこの分類何なのと思うと思うんですけど、僕は本当にソフトなワキガなんですね。ハードではないほうの。これはある種のカミングアウトであって恥ずかしい独白でもあるんですけど、何故こうも声高に宣言する必要に駆られたかと申しますと、僕は一介のソフトワキガとして、世の同胞諸君に向けて、つまり、ワキガ一族の皆さまに一石を投じなければならないという使命を感じたからなのです。

 

僕は言うなれば、「自覚的」なワキガ一族の末裔でありまして、その中でも脇の臭いが割と「ソフト」な部類の人間です。どれくらいの臭いかと申しますと、シャワーを浴び終わって、Ag+を両脇にそれぞれ15秒ほど照射すれば、その日一日の臭いはまあ及第点、その日の運動量、汗のかき具合によってAg+に準ずる制汗スプレーの照射は適宜必要となってしまいますが、まあ及第点なのであります。

 

まとめますと、僕は自身のワキガに対してひどく敏感で「自覚的」であり、その比較的「ソフト」な臭いに対するケアも事前にマナーとしてすましており、他者への気遣い、自身の臭いによって不快な気持ちになる他者、指摘したくても気を遣ってできない他者、に対する繊細な姿勢を有している人間であるということです。

 

それでは、そんな僕が、ワキガの同胞諸君に向けて伝えたいこととは何か。率直に申し上げて、僕は怒っているのです。これは何も同族嫌悪の感情から申し上げていることでありません。そして、僕以外の、全ワキガ同胞諸君に対して怒っているわけでもありません。私達がかかる臭いを有してこの世に生を授かったことは、ありていに言って神様のいたずらであり、誰も欲しいと求めて授かった才能などではなく、勝手にオプションとして付いてきた返却希望のギフトであり、そこには深い同情心すらあります。

僕が怒っているのは、自身の「ハード」なワキガに対して「無自覚的」な人間です。「ハード」なのに「無自覚的」なワキガです。

 

 

 

 

気は確かか?

 

 

 

 

僕の怒りの全容は上記の5文字に集約されてると言ってよいです。さらにその怒りをひも解いてゆくと、まず第一に頭に飛来する言葉は、「なぜ、そんな鈍感なの?」です。

自称するのもおかしい話ですが、僕は繊細で敏感な青年であり、自分が無自覚的であることに人一倍の羞恥を感じる人間です。ですから、まずその鈍感さがうらやましくも憎らしくもあるわけです。

 

さらに、ワキガの十字架を背負っていないノンワキガの人達も私のように、「なぜ、気付かない?」と感ずることと思いますが、その感情と私が抱く感情の間には濃淡があり、と言いますのも、私は一介の自覚的ソフトワキガーとして、「何故、ソフトの俺ですら気付いているのに、ハードのお前は気付いてないんだ」という、

ワキガーとして上乗せされた黒々とした憤怒があるからです。ありていに言ってしまえば、

 

 

 

「なんでソフトワキガ―の俺がハードワキガ―のお前に気を遣わないといけないの?」

 

 

 

ということになるでしょう。ノンワキガの方々からすれば、なんかワキガ同士でいがみ合ってるんですけど、超ウケるんですけどクセェという滑稽な状況に映ってしまうと思いますが、僕は本当に無自覚的な彼らが理解ができないのです。

 

自分から発せられる臭いを感知するには、五感のうちの嗅覚が正常に機能している必要があります。例えば、臭いの話をすると必然的に汚い話になるのでご了承願いたいですが、自分がしたオナラを嗅ぐとします。クサいです。当然のようにクサいですよね?それを俺のオナラは全然無臭だと言い張ってプップしている人がいたら嫌ですよね?

もう一つ、自分がウンチをしたとしましょう。クサいです。当然のようにクサいですよね?それを俺のウンチは全然無臭だと言い張ってブリブリしている人がいたら嫌ですよね?

 

 

 

無自覚的ワキガ―はそういう人達です。

 

 

 

そして更に何が恐ろしいかと言えば、それは、自分の嗅覚と、他者の嗅覚との落差です。例えば、自分のしたオナラの臭いは、自分よりも他者が嗅いだ時のほうがクサく感じるでしょう。ウンチも然りで、自分がしたウンチのにおいを、自分が嗅いでもクサいでしょうが、他者が嗅いだ方がよりクサく感じられるでしょう。何故ならそこには「他者から発せられた」という圧倒的距離感があるからです。この理屈はワキガにも適用できるはずで、つまり、自分のワキガのにおいは、自分が嗅いでいるにおいよりも、数倍他者はくさく感じている、ということになります。しかし、無自覚的ワキガ―の人たちはそれを嗅覚で感知できていないのです。

 

 

 

気は確かか?

 

 

 

ここまできて、無自覚的ワキガ―の方々に対して一つのテーゼが浮かび上がってきます。それは、「ワキのにおいもおかしいが、その前に嗅覚もおかしい」という命題です。そして、無自覚的ワキガ―から自覚的ワキガ―(僕がここに所属しています)へとランクアップするためには、

 

1.正常な嗅覚を取り戻す

 

2.自分がワキガであることを自覚する

 

3.更にそのにおいが自分で嗅ぐよりもクサいことを自覚する

 

4.Ag+を毎朝両脇にそれぞれ25秒照射することの習慣化

 

このフォーステップを踏むことが必須であると考えています。自覚的になりさえすれば、事前にケアができますし、周囲に変な気遣いをされずに、不快な気持ちにもさせずに、快適なワキガ―ライフを満喫できるはずです。

 

僕は、謙虚な自覚的ソフトワキガ―ですが、よくワキガであることを周囲(ノンワキガー勢が調子に乗りやがって)にいじられ、あちらからこちらの脇を嗅いでくることもしばしば、それを僕は全力で阻止しながら、「やめろやめろ!ワキガだから!!」と脇を閉めながらのけぞるなどの一幕、どんだけ謙虚なワキガなんだと、謙虚なワキガってなんだよと、自分をホメてやりたい気分ではあります。

 

僕が最後に言えることは、ノンワキガもワキガも、ソフトでもハードでも、無自覚的であろうが自覚的であろうが、全ての人類が手を取り合ってAg+を照射し合える平和的社会の実現を心より祈っています。

サブキャラ的自意識(1)

サブキャラという概念は僕が大学時代から用いていたもので、その概念の説明は6年前に「サブキャラとは何か」という記事で書いているので是非参照していただきたい。

 

当時の記事で僕はサブキャラという存在を他者に見出し、それを唾棄すべき存在として捉えていたきらいがあるが、何故そこまで、ある種独善的な眼差しで他者を見ていたのかと考えた時に、浮かび上がってきたことがある。その眼差しは確かに他者を捉えていたが、それと同時に僕自身という存在をも捉えていた、ということだ。つまり、僕は僕自身をサブキャラだと思う自意識を持ってこれまで生きてきて、そこには、そうなりたくない、そこから脱却しなければならないと常に思い悩んできた歴史がある。

 

サブキャラ的自意識の萌芽がどこから生まれるのか考えてみると、そもそもの出発点は、自分は他者と比べて社会的になんの価値もない存在なのではないかという自己肯定感の欠如、そこに付随して現れる他者への劣等感である。

 

僕は小5から中1までインドに2年間行っていて、中高一貫の男子校に帰国子女枠として日本に帰って来たのだが、そこでまず初めに感じたことは、インドに行って失った(本来は日本で過ごすはずだった)2年間の空白である。僕はこの時、インドでの2年間を(日本で過ごすはずであった2年間と比べて)価値のある時間だったと見なすことができないでいた。周りの同級生は僕よりも豊かな2年間を送っている、自分にはない社会性を帯びた、いうなれば先輩的な優越性を感じさせ、そこで僕は漠然とした劣等感を抱くこととなった。振り返って考えると、僕のサブキャラ的自意識の萌芽はこの辺りからしっかりと輪郭をもって現出したのかもしれない。

 

例えば、中学一年の頃に国語の授業で作文を書く時、僕はしっかりと平均的な中学一年生が書くであろう文章を書けるのだろうかと不安になった。中1にもなってこんな文章を書くのかと馬鹿にされたらどうしようと狼狽して、鉛筆を持つ手が進まなかった。

 

僕は自分自身を、他の同級生と比べて決定的に劣っている存在だと思っていた。故に彼らの前では萎縮して、ありのままの自分を出せずに殻にこもり、名前を呼ぶ時も、普通に名字で呼んでいいよと言われても頑なに君付けで呼んでいたし、僕がもし普通に名字で呼ぼうものなら、それは身の程をわきまえていない、劣位の者が優位の者に対してすべきでない行為であると、他の誰でもない、まさに自らの目線で自らを罰していたのである。

 

この窮屈で陰鬱なサブキャラ的自意識から僕は常々脱却しなければならないと考えていた。その自意識から一過的にでも解放されるためには、自身が力を獲得し、自分よりも優位者だと認知している他者と肩を並べるか、あるいは超えていくことしか道はなかったのである。