道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

ラスカルを巡る旅

さて昨今、私は自他共に認めるラスカル系男子の名を欲しいままにしている訳だが、そもそも何故私がラスカルに愛着を持っているのか、自身のルーツを掘り下げて考えていきたい。

ちなみに、ラスカル系男子とは、ラスカルのLINEスタンプを多用することによって、女性陣に(ラスカルに後押しされた)自分の可愛さをこれ見よがしにアピールする愛嬌に満ち溢れた男子の総称である。

私のラスカル愛の芽生えは、小学校低学年までさかのぼる。当時の私は、ぬいぐるみを集めることに人一倍の喜びを感じる少年であった。大小様々な動物のぬいぐるみを、誕生日やそれに準じたイベント毎に両親に買ってもらい、ぬいぐるみ達の集合写真をインスタントカメラで撮り続けるといったライフワークをそつなくこなしていた。

そしてその中でも、私がとりわけ愛着を示していたぬいぐるみ達がいた。彼らの名は、



シッポッポ族



と言った。私が命名したのか、最初からそういった名前が付与されていたのかは定かではないが、取り敢えず彼らは名をシッポッポ族と言った。

そして私が愛したシッポッポ族の中でも、とりわけ愛したシッポッポ族がいた。それは、私が「三兄弟」として位置付けていた、シッポッポ・ジュニア、シッポッポ・ハスキー、そして、シッポッポ・ヌーグの三匹である。

長男のシッポッポ・ジュニアはネズミ色をしたシッポがやけに長いリスであり、次男のシッポッポ・ハスキーは名前の通りシベリアンハスキーであり、そして、三男のシッポッポ・ヌーグは何を隠そうアライグマであった。

私はぬいぐるみを愛し、その中でも、シッポッポ族を特に愛し、更にその中の三兄弟を格別に愛し、その三男であるシッポッポ・ヌーグを至高に愛していた。

私は何処に行くにもシッポッポ・ヌーグと行動を共にした。幼馴染みの家に行く時も、ご飯を食べる時も、寝る時も、いつも私の隣にはシッポッポ・ヌーグがいた。時間がある時はいつもシッポッポ・ヌーグの絵を描き、大きな画用紙を数枚使って巨大シッポッポ・ヌーグを描いて子供部屋に貼り付け幸福感に浸っていた。

しかし、小4になった頃、犬を飼い始めた時から事態は急変する。私が無償の愛を注いでいた対象が、ぬいぐるみから犬へ変化した訳ではさらさらない。ではなく、その犬、チワワのチコが、私のぬいぐるみを次々と喰い殺しにかかってきたのである。

私は慄然としたが、私のシッポッポ族がチコの毒牙にかかるのに、そう時間は掛からなかった。ふとした時、チコを一瞥すると、彼は何かをくわえていた。



シッポッポ・ヌーグである。



私の一瞬の隙をついて、チコはシッポッポ・ヌーグを捕らえていた。私はすぐさまチコがくわえていたヌーグを掴み取って払いのけた。私は安堵したが、何か違和感を覚えた。もう一度ヌーグをしっかりと見た。



左手が無い。



ヌーグの左手が無くなっていた。私は泣いた。白い綿のようなモコモコがヌーグから飛び出ていたのを見て泣いた。すぐさま母親を呼んで、チコによって食い千切られた左手とヌーグの胴体を縫合してもらい事無きをえた。

私にとってのラスカルのルーツとは、つまり、私にとってのシッポッポ・ヌーグである。故に私はラスカルに至高の愛を注ぎ続けるのである。

俺、川で溺れる

死を身近に感じる体験というのはなかなかしないものだが、というか可能であればしたくないが、私はひと昔の夏ごろにその体験を川で溺れかけてした。

そもそも何故川にいたのかと言えば、川でBBQをしていたからであり、何故川でBBQをしていたかと言えば、それは私がリア充だったからである。

夏に夏らしいことをするのはリア充の定石であり、私は川辺でBBQの肉を食べながらビールを飲み、談笑しながら青空を仰ぎ(厳密には曇り空だったが)、嗚呼、夏が今年もやってきたと呟きながら気付いた頃にはパンツ一枚で川に飛び込んでいた。

私は幼少期から水泳教室に通っていた身分であり、当時の私はその長い手足を存分かつ的確に動かすことによって水を掻き分け、ドルフィンの如きスピードで突き進み、他の同級生の追随を許さなかった。故に泳ぎには一段の自信があった。

私が泳いでいた場所は比較的浅く、まだ足のつくゆとりがあった。ゴーグルは持ってきていなかったので顔を出した状態で平泳ぎをして昔の感覚を取り戻していた。

少し経って、泳ぎながら前方に目をやると、これまで透明だった水が、薄い緑の色に変わっている場所があった。色の濃淡から判断しても水深のある場所であったが、私は構わず平泳ぎで進んで行った。

そこで少し泳ぎ疲れたと思った私は足をつこうとした。しかし、182cmの長身を活かした私の長足が水底につくことは決してなかった。



ヤベェ深ェ



私はこの時川の水をいくらか飲んでしまった。一休みついて呼吸をしようとした矢先に足のつかない川に沈み水を飲んでしまったのである。



ヤベェヤベェ



私は行き来た浅瀬にまた平泳ぎで戻ろうとして思いっきり手を掻いたが、川の流れに押し戻されてほとんど進むことが出来なくなっていた。一見緩やかに見えた川の流れがここに来て一気に脅威に変わった。呼吸が荒くなり、息苦さが増してきた。



ヤベェヤベェヤベェ!!



私はテンパった。しかしテンパればテンパるほど身体は沈み、身体が沈めば沈むほどテンパりは加速する。この悪循環に陥ったことに瞬時に気付いた頭脳派の私は一瞬にしてある結論を見出した。



このままだと死ぬ



ヤベェヤベェヤベェヤベェ!!!心の声が悲愴に叫ぶ。学生が川で遊んでいたが溺れて亡くなった、いつか見たニュースが頭に飛来する。助けを求めても仲間には溺れボケとして処理されるであろう自分のキャラクターを想う。まだ何も成し遂げていない。私はまだ何も成し遂げていない!まだ世間は私という稀有な存在に気付いてすらいない!!




死にたくない




死にたくない死にたくない!!





死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!!!!



まず落ち着こう。このままでは文字通りもがき苦しんで溺れてしまう。死が差し迫った問題であることを感じながらもまず落ち着かねばならない。落ち着け自分。落ち着くのだ。というか呼吸が苦しい。呼吸がしたい。ちゃんと呼吸がしたい。てか呼吸しないと死んじゃう!ああ!!川の水もう何回飲んでんだよ!!どうしよう!!本当にこうやって死んでくんだ!!あああ!!呼吸呼吸!!くそ!!あっ!!そうだ!!!



背泳ぎだ!!!



私は全く進まない平泳ぎから、呼吸を最も確保できる泳ぎ方である背泳ぎに切り替えたのである。私は死に瀕した絶体絶命の状況下で機転を利かせ、もがきテンパっていた平泳ぎから神妙な面持ちで背泳ぎにスイッチした。背泳ぎは仰向けになるため前を向けず、自分が何処にいるか把握しにくくなるが、私はこの背泳ぎが自分の命を救うと信じる他無かった。

私は空を見上げながら一心不乱に手を掻き、ばた足をした。はたから見ればさっきまでは優雅に平泳ぎをしていた男が、またチラッと目に映った時には何故か逆方向に死に物狂いで背泳ぎを開始している異様な光景に映ったと思うがこちとらそれどころではない。1人の男の生死がかかっているのだ。

私は決死の背泳ぎで力を使い果たしたため、もう一度足をつくしかなかった。自分が何処にいるかも分からぬ、もしかしたらまだ川の流れに押し戻されて深い場所に留まっているかもしれない。しかしそれは一度足をついてみないことには分からない。私は意を決して直立した。



エス
アイアムアライブ。

些細な変化に気付く男子

女子の些細な変化に気付くこと。それがモテる男の1つのベタな条件であることに異論はまたない。あっ髪切ったんだ、髪色変えたんだ、ネイル新しくしたんだ等など、男子なら一度は言ったことのあるフレーズであろう。

では何故、些細な変化に気付くことがモテることに繋がるのか。それは、その変化が



些細な(どうでも良い)変化






(どうでも良い)




からに他ならない。どうでも良いのである。客観的に見れば一個人が髪を切ろうが染めようが、ネイルをしようがしまいが、変な色のカラコンを付けてようがつけてまいが、徹頭徹尾、果てしなくどうでも良いことなのである。

しかし故にこそ、そのどうでも良い変化をあえて指摘することに価値が生まれるのだ。誰もが指摘、気付きうる事柄を指摘したところでそこには何の意味も価値もない。

久々に会った友人の頭が完全にハゲていたとして、あるいは、何故かその右腕が完全に無くなっていたとしても、それを指摘したところでなんの価値もない。何故ならばそんなことは誰もが気付く由々しき事態だからである。

髪を切ることひとつにしても、自分が髪を切るということになれば、それは主観的に見て1つの大きなイベントのように感じられる。

しかし、自分ではない他者が髪を切ったとなった途端、それは些細でどうでも良いイベントのように感じられてしまう。この認識の落差はどこからくるのか。簡単に結論付けてしまえば、恥ずべきことに私たちは概して、



自意識過剰



なのである。自分が自分を見る目線に支配されていると言ってもよい。自分が髪を切ってだいぶ変わったなと思っていても、人から見たら、え?あ、髪切ったん?くらいの軽さで見られることなどままあるだろう。

だからこそ思うのだが、些細などうでも良い変化に気付かなかった男に対してわざわざ、何で気付いてくれないの?と軽く怒ったり、あるいは、そういうとこに気付かないからモテないんだよ!なぞと何故だか上から目線で物を言う必要は無いんじゃないだろうか。変化に気付いた人にはありがとうという嬉しさを伝えることこそあれ、気付かない人をあえて攻撃する必要はないであろう。

だってそれはそもそも、

自意識過剰な個人が重大な変化であるとおめでたく思っているだけで客観的に見れば取るに足らないどうでも良い変化

なのだから。

プリティー&ハンサム

可愛い子と、イケメンと知り合いたい、そしてあわよくば、しかるのちに懇ろになりたいと思う個人の感情は根源的なものである。僕たちは結局のところ目に見える美しさに、つまり、他人の容姿の美醜、平易に言えばその人の外見に重きを置いている。外見の美しさこそが視覚化され顕在化された、誰もが追い求める重大な価値なのである。

彼氏にするならイケメンの方が良いと考えるのは(彼女にするなら可愛い子の方が良いと考えるのは)、自分が外見の良い異性を好むからであり、その異性と付き合っている自分を友人や周りの人間に承認され、羨望され、賞賛されたいからであり、ひるがえってその異性と結ばれている自分を誇りに思いたいからである。

しかし、プリティー&ハンサムを追い掛け、しかるのちに懇ろになろうとする道は修羅の道である。何故ならば彼らを手に入れようとする数多の他者の追随はとどまることを知らず、その美が上位になればなるほどより熾烈な争いの様を呈するからである。

例えば、極論を言ってしまえば、小松菜奈と懇ろになりたければ菅田将暉を倒さねばならず、オーランド・ブルームと懇ろになりたければケイティ・ペリーを倒さねばならない。

上記の例は極論にしろ、僕たちは少なからず他人の外見に美を求めた時、その熾烈なフィールド、ロード・オブ・シュラに足を踏み込んでいると言ってよい。

例えば、可愛い子と付き合いたいと思っている芋男君がいたとする。その芋男君はまず身の丈に合ってないとは自覚しながらも必死にその乙女と知り合う機会を作り、やっとのことで連絡先を聞くところまでこぎつける事ができた。

しかし、その段階で芋男君の周りには数多の敵がいることに気付く。その敵とは無論、その乙女を狙っている、あるいは既に獲得している他の男達である。その男達は例えばイケメンA君であったり、お金持ちB君、あるいは有名人C君、そして彼氏D君かもしれない。

つまり、芋男君がその乙女の美に魅了され、それを追い掛けようと思った段階で、無数の潜在的な敵、あるいは顕在的な敵(彼氏)を想起せねばならない状況があったのである。

そしてさらに、仮に芋男君がその乙女と付き合い、懇ろになったとしても、芋男君はこれまでの修羅の闘いから退き、安寧の時間を過ごすことはできない。芋男君は彼氏になれたとしても、その後も継続的に他者の脅威と相対しなければならない。つまり、その乙女が自分のもとからいなくなり、なんびとかに奪われてしまうかもしれない不安と戦い続けなければならない。

芋男君自身に自信があれば、彼女を繋ぎ止める魅力が自分には備わっているという圧倒的自己肯定感があれば、その不安から、脅威から抜け出す事ができただろうか。虚しいことに、自信と過信は紙一重であり、その自信はひとえに驕りに過ぎないであろう。

美に価値を置き、それを他者に求め、それを獲得しようとする行為は、絶え間ない他者との闘争に身を投じ、安寧のない不安と猜疑に満ちたフィールドで、過信とも言える不確かな自信を持ち続けなければならないことなのである。

時給1万円の仕事

来月から新元号令和を迎えるわけですけども、

その前に僕は売れない芸人&売れないホスト歴7年目を勝手に迎え、さらに二十代最後の年も迎え、そろそろ完全に地に足を付けて人生チェックメイトなわけなんですけども、

 

やはり、10代後半や20代前半に求められていた男としての魅力が顔面偏差値やらイケイケ度合だとしたら、アラサーにもなると徐々に経済力に推移していくわけじゃないですか。僕の大学の同期なんてもうだいたい大企業勤務のサラリーマン7年目なわけで、結婚とかも、なんならもう子供もいるような、そんな人たちがうじゃうじゃいて、いい感じに盤石に脂乗ってきているわけですよ、男として。

 

ひるがえって僕ですよ、かたや僕ですよ。ポケモンコロシアム的に言ったら、風前の灯火だがどう攻めるかの状況ですよ。芸人もホストもどっちも売れてないですからね。せめて少なくとも片方は売れてろよじゃないですか。

いや、でも、芸人で売れてしまったら、忙しくなって好きなホストも出勤できなくなるし、逆にホストで売れてしまったら、忙しくなって本業の芸人業がおろそかになってしまうから、結果としてどちらも売れないという選択肢をチョイスしましたってヘルプで滔々としゃべってた過去の自分を殺してやりたい気持ちでいっぱいですけど、この前ATM行って預金残高見たら15,100円だったんですよ。

 

これはもう健康で文化的な最低限度の生活を営むのギリアウトじゃないですか。まあしょうがないですよね、芸人もホストもどっちも売れてないんだから。普通だったらもうヤバいですけど、ただ、これ僕が神様に与えられた唯一の才能と言ってもいいですけど、それは何かと言うと、シンプルに家が金持ちなんですよね。

これはいくつか前の記事にも書いたんですけど、父方のおじいちゃんがシンプルに東京ガスの社長だったんですよ。それでお父さんもエリート商社マンで、ここでもやっぱりひるがえって僕ですよ。かたや息子の僕ですよ。29歳の売れない芸人&ホストじゃないですか。なんでやねんじゃないですか。おいっ!どうしたんだい?!おいっ目覚めろ!華麗なる僕のDNA!じゃないですか。完全に自分に組み込まれてるDNAに他力本願してる今日この頃の俺だァなんですよ。

 

まあ未だ目覚めてないDNAはしょうがないから寝かしとくとして、お金がないからシンプルにママにそのこと伝えるじゃないですか。でもぶしつけにお金無いからちょうだいとは言えないですよ、流石にね。僕にも、本当なら大学卒業して普通にサラリーマンになって安定した社会生活を営めていた未来がカナリの高確率であったわけじゃないですか。違う世界線では輝いているイケイケな僕が存在しているわけじゃないですか。親に対してその負い目と言うか、申し訳無さっていうのはもちろんありますから、おいそれとは言えませんでしたよ。

それでそんな僕を見かねたママが言った一言が、犬の散歩してくれたら1万円あげるよだったんですね。そりゃ食い付きますよね。散歩だいたい1時間なんで結果時給1万円なんですよね。この話をホストの従業員にしたら売れっ子キャバ嬢と同じ時給って言われて笑っちゃったんですけど。だって売れてないホストが売れっ子キャバ嬢と同じ時給もらってるのっておかしくないですか。

 

それで僕んちミニチュアシュナウザー飼ってて、僕は全然好きじゃないんですけど、室内でうんちとおしっこしないように育っちゃったから、ママが毎日朝と夕方の二回散歩1時間ずつ行ってるんですよ。そのうちの夕方の部を僕が担当する運びになったわけです。主な仕事内容は、うんちをしたら拾う、おしっこをしたら専用のペットボトルで水をかけるって感じで、というかわざわざ説明するまでもないですね、普通の犬の散歩です。普通の犬の散歩したら1万円もらえます。

 

それでまあ、散歩行くじゃないですか。で、犬って電信柱で片足あげておしっこするじゃないですか。お決まりのポーズというか。それはうちの犬も一緒なんですけど、うんちする時ってだいたい普通の犬は四つん這いになってうんちすると思うんですけど、うちの犬は何故か後ろ足ふたつとも宙に浮かせてうんちするんですよ。意味わからなくないですか?めっちゃ筋肉ある人が負荷かけて腕立て伏せする時に、足浮かせて腕立てできるじゃないですか。あんな感じで両足あげてうんちするんですよ。

 

それでうちの犬が電信柱付近でその体勢になって、あ、うんち来るなって思うじゃないですか。後ろ足浮かせて電信柱をバックにうんちしてるんですよ。まあそれである程度たってうんち終えるじゃないですか。そしたら、普通うんちって当たり前ですけど地面に落ちるじゃないですか、重力的に。でも地面見てもうんちないんですよ。おかしいじゃないですか。それで、えっ?て思って電信柱見たら電信柱の中腹にうんち付いてたんですよ。

その時花粉がひどくて、僕花粉症なんですけど、それで眼も悪いんでマスクとメガネかけて散歩しようと思ってたんですけど、そうするとメガネ曇っちゃうから、裸眼にマスクで散歩してたんですよ。で、眼めちゃくちゃ悪い状態で、その電信柱の中腹に付いたうんち見たら、マジでうんちが宙に浮いて見えたんですよ。地面にうんち落ちてなくて、え?!うんちは?!ってなったあと電柱見たらうんち宙に浮いてるんですよ。めちゃくちゃ笑いましたよ。普通に割と大きな声で「えっ!!なんで浮いてる!!?なんでそこ?!」って言いましたよ。その時、反射的に撮った写真があるんで載せますね、ちゃんとぼかしてあるんで汚くはないです。

 

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めっちゃ浮いてるじゃないですか。

 

 

 

なんかぼかしを入れたことによって、余計リアルに僕の裸眼の時の視力が再現されて浮いているように見えるじゃないですか。これってまあ、何の話やねんって思われると思うんですけど、このうんちの粘度がこれ以上固くても、逆に柔らくても、この状態にはなり得なかったと思うんですよ。固すぎたら普通に地面に落ちるし、逆に柔らかすぎても下痢っぽくなってうんちの形状を維持できなかったと思うんですね。だから本当に、固すぎず柔らかすぎずの絶妙な状態で生まれてきたこのうんちに拍手を送りたいというか、もはやこれはある種のアートですらあると僕は思います。

 

かくかくしかじかで、僕は時給1万円の仕事を手に入れて健康で文化的な最低限度の生活を享受できているのです。ホストの営業中に僕に「ブログ読みました!」と言っていただければ、無料で無修正版のうんち写真を見せてあげますね。ワンワン!!

ママと僕のアナル事件

読者諸賢、ご機嫌うるわしゅう。

29歳独身実家暮らし彼女なし、日々の楽しみはママとの雑談。

ご無沙汰しております、私です。

 

私がマザコン界のカリスマとして、その勇名を欲しいままにしていることは皆さん周知であると存じますが、―それは実際に私が三十路一歩手前まで来ても、ママのことをママと呼んでいることからも読み取れると思われるが―、マザコン界の世界的権威として、今回私は私のママと私にまつわる話を語らずにはいられない。一つの大きな結論として、うちの家族は全員どこかおかしく、そして無論、私のママもその例外ではない。

 

あの出来事は、私がまだ大学3年生だった頃、私は原因不明の腹痛に悩まされていた。その腹痛が1週間ほど続いた結果、不安になった私は病院に赴き、後日大腸検査をする運びとなった。

大腸検査とは何かありていに言ってしまえば、自身のアナルに内視鏡カメラを挿入し大腸をチェックするというものである。血液検査の注射のハードルですらギリギリ越えられるかくらいのメンタリティしか持ち合わせていない私にとって、大腸検査という自らのアナルをほぼほぼ供物として差し出す初のインシデントは、とても重大であり不安であり恐怖でもあった。ゆえにその結果として、当日は己の精神的支柱たるママに付いて来てもらうことにしたのであった。

 

検査当日、私はママと共に病院の待合室で待機していた。その間、腸の中を綺麗にするポカリを薄めたような液体を飲み続け、数回ほどトイレで用を足して検査までの準備を整え、そしてついに私の名が呼ばれた。

 

先生の「どうぞお入りください」の声と共に、それじゃあ行ってきますとママに一言付言し、待合室の席を立った私とほぼ同じタイミングでママも一緒に席を立った。

その一瞬、その一瞥をくれた時に、え、普通に待合室で帰りを待っているタイプではないのかという疑念と共に、現場まで見に来るタイプだったんだという諦観、そして病院のお医者さんも看護師さんも、私とママが現場に入って来るまでの間に誰も「お母さんは外で待っててください(笑)」と指摘さえしない、さもそれが当然であるかのような空気感と、これから自分に訪れるであろう検査の恐怖と不安に圧倒された私は、

 

 

 

もうやるしかない

 

 

 

そう意を決して開き直り現場に入った。神様、今日僕は母に自らのアナルを見せ、母は息子のアナルを見ます。私たちの眼前には、小ぶりの手術台があり、「それではそこで四つん這いになってください」とお医者さんの無慈悲な言葉が私の耳にこだまする。もうどうにでもなあれと心を出張させた私は言われるがままに四つん這いになり、お尻を出した状態で内視鏡を受け入れる体勢に入った。「それでは始めますね」というお医者さんの合図と共に私は気を引き締めて前方を見た。そしてその一瞬、私は私の目を疑った。

 

私の前方には、オーロラビジョンのような大きめのスクリーンがあった。そのスクリーンは何かと言えば、それは内視鏡から見える映像を映し出すためのものであった。そしてその当然の帰結として、私の眼前には私のズームアップされた大アナルがそのまま映し出されていたのである。反射的に横で見守っていたママをサッと見ると、ママは身体をねじらせ口を押さえ込んで笑っていた。

 

 

 

神よ

汝、辱めを耐え忍ぶ者ナリ。

 

 

 

検査の時間―ヘルタイム―は恐らく10分程度で、結局私の大腸には特に悪いところはないということだった。私は自身の大腸になんの異変もなかったことよりも増して、はやくこの時間が終わってくれたことに安堵していた。検査が終わり、私は手術着から服を着替える必要があったため、「お母さん、先に出ていてください」とお医者さんが伝え、私のママは先に待合室に戻った。

そして、服を着替えた私は待合室に戻るべく、お医者さん達に会釈をしてから扉を開いた。すると、その扉のすぐ先に、何故か私のママが不敵な笑みをたたえながら立っていた。さらに不思議なことに、何故かママはプレデターのような顔を両手で表現しながら立っていた。

 

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(↑プレデター

 

怪訝に思った私は、「いや、どうしたの」とシンプルに問うた。するとママは一息ついてから自分に指を指しながらこう言った。

 

 

 

「ここが、アンタのアナルで、こっちがケツ毛」

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おい、ブスって言うな。

男女のコミュニケーションにおいて、僕が長年、最も不可解極まりなく、理解に苦しみ、並々ならぬ義憤を感じているものがある。それは、男性が「ブス(笑)」と女性に言い、女性が「もう~ブスじゃないし(笑)」と返すじゃれ合いである。この男女のキャッチボールを100%肯定し、理解していると思っている人は、そもそもこの文章を読むモチベーションもないだろうし、読まなくてもいいんだが、ただそうした場合の唯一にして最大のデメリットは僕と友達になることができない。

何故なら、僕は女性に対して「ブス(笑)」と得意げに言う男が親の仇の如く嫌いだからである。さあ、それでは、ただいまより、そのにっくき男性側の問題点を列挙していきたいと思う。

 

 

問題点①

「どの面下げて言ってんだ?」問題

そもそも「ブス」という言葉は、噛み砕いて言ってしまえば、「あなたの顔は醜いです。」と、その対象者に表明することである。そしてその表明は明らかに誹謗中傷の類(俗っぽく言えばディスり)であり、その対象者が傷付くであろうことは当然予期できるし、そうであるならば、そうやすやす鹿のフンのようにポロポロと口に出すべき言葉ではない。

 

さらに、「ブス」と女性を中傷し、劣位に置く言葉は、その言葉を発した自己を相対的に優位に置く、つまり、「僕はブスではなく、それ以上の顔を持っています。簡単に言えばイケメンです」と表明したこととなる。たとえば、人にバカだな!と言った時、その人はその他者よりも自分の頭がいいことを暗に表明しているわけである。

 

つまり、人に「ブス」と言う行為は、自分の顔面がある程度整っている、なんならイケメンというおめでたいナルシシズムと、おかど違いも甚だしい身の程知らずの上から目線と、自分が優位に立ち主導権を握りたいと目論む下卑た下心とが、その男の精神に大前提的に宿されてなければ成立しないのである。この三点セットの醜き精神こそが、僕の心に聖なる義憤をともす主要因である。

 

そして、そのようなひどく独善的な精神と決別する為には、女性側も「もう~ブスじゃないし(笑)」なぞと生ぬるいじゃれ合い、愛想笑いをしている場合ではない。「お前、どの面下げて言ってんだ?」「ブスがブスって言うと余計ブスに見えるね」「人をブスブス言うブスは、己のブスを知らぬブス」「その顔面偏差値でナルシストとかゲボりそうなくらいキツイ」「お前のツラにもらいゲロしそう」「その醜悪なツラが生理的に限界過ぎて精神的にも肉体的にも失禁しそう」など、はた目から見れば強度がかなりある言葉を投げかけ、ショック療法をしなければ、彼らはそのおめでたい幻想から目を覚ますことができないであろう。

 

極論を言ってしまえば、「ブス」と人に言うことが成立する人間は、主観的にも客観的にも、自他共に認める確固たるイケメンでなければならない。そうでなければ、その男はすぐさま「お前、どの面下げて言ってんだ?」問題の範疇に入ることになる。最後にこの問題の結論として言えることは、

 

 

お前、吉沢亮じゃないんだから人にブスって言うな。

 

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問題点②

「そもそもしょーもない」問題

 世は広く、様々な職種があることは承知しているが、この社会には「ナンパ師」と呼ばれる人種が存在する。原則的に彼らは女性に声を掛けナンパし、ホテルまで行くことをゴールに掲げ、それに際するマインドセット、テクニックなどをブログなどのSNSで発信し、その講習や教材販売などでお金を稼いでいる人種である。

 

そのナンパ師界の専門用語に「ネグレクト(略してネグ)」という言葉があり、その意味を調べてみると、「敢えて相手に関心がない素振りを見せたり、批判的な態度をとる、けなすことで興味を引く様。失敗すると、ただ相手を傷つけて終わる結果となる。」とある。

 

これまで述べてきた「ブス」と人に言う行為は、このネグレクトで言うところの「けなすこと」に符合するが、普通に考えてみても「ブス」と人をけなすことはあまりにも低俗なネグである。(略して言ってみた)

 

容姿端麗な女性は、いつも周りに可愛い可愛いと褒められ、ちやほやされ、持ち上げられることに慣れているから、そこを逆張りして、敢えて可愛いと褒めたりしない、小馬鹿にしてみるといった正攻法の戦略の正しさは一理あるかもしれないが(ここでも「ブス」とけなすことは低俗で正しくないが)、どのようなネグレクトも、俗っぽく言えばディスりもイジりも、良質な褒めには一切敵わないという認識は必要である。

人は当たり前のように、褒められたら嬉しい生き物である。そもそもけなされて嬉しい人間の方が少数派であることをまず認識すべきである。そして次に、キミは人をけなす前に、人を褒めるという世界を知り尽くしたのかと僕は問いたい。

褒められ慣れている美人に対して、数多の他者の褒め言葉の追随を許さないほどの珠玉の褒め言葉を、褒められ慣れている美人でさえも、ハッと頬を赤らめてしまう褒め言葉を考えようとしたことはあっただろうか。その世界を深く知ろうともせず、つまり、多様で豊かな褒めの世界からはスッと身を引き、鹿のフンが如くポロポロと得意げに、醜悪なツラをたたえながら、ブスブスブスと呪詛のように唱えるキミはあまりにも滑稽ではあるまいか。更に言ってしまえば、しょーもなくないか?うん、そう。しょーもないんだよ。

 

「ブス」とシンプルにけなすことはあまりにも滑稽でしょーもない。なんの芸もない。知性を感じない。面白味がない。全てがない。どうせけなすなら、どうせディスるなら、どうせネグるなら、どうせイジるなら、もっとちゃんとする責任と義務がある。

 

僕がここで提案するのは、「褒めているようで、実はけなしている」という「褒めイジり」というジャンルである。シンプルに「ブス」とけなすよりは、いくぶんかマシであると考えている。以下にいくつか例を挙げてみたい。

 

1.「すごい可愛い!!ウチのママの次に!」

2.「ハリセンボンの可愛い方に似てるね!!」

3.「すごいモテそう!モンゴルあたりで!!」

4.「そのバッグ高そうでオシャレだね!何百円したの?!」

5.「肌の透明感がすごいね!イカみたい!!」

6.「スタイルめちゃいいね!毛を毟りつくされた後のアルパカさんだ!!」

7.「ジム通いとか意識高っ!スムージー飲み過ぎで酔ったことあるでしょ?!」

 

前半部分でベタに褒めつつも、後半部分でけなすことでツッコミを誘発しやすくなる作りになっている。貴方自身のセンスと知性とユーモアと、女性と前向きにじゃれ合いという向上心を持って是非「褒めイジり」にチャレンジしてみてほしい。

 

以上述べてきたように、主にこの問題点二つが、長年僕が抱いてきた義憤の正体である。褒めてばかりでは二人の心理的距離感を縮めることができない、イジったり小馬鹿にすることでその距離感を縮めることができるといった意見は一理あるが、その人達は果たして真に褒めの世界を知り尽くしているのだろうか。最後にもう一度だけ問い直したい。

 

僕は、女性に褒められただけでその人を好きになってしまうくらい距離感を縮められてしまう。褒められ慣れてない人間は褒めにめっぽう弱いのだ。そしてそもそも日本人は「褒め」慣れてないから、必然的に「褒められ」慣れてる人間が少数派である。

 

この記事を最後まで読んでくれたキミには是非とも、「ブス」と言って悦に入るしょーもない人間にではなく、褒めて褒めて褒め殺して、時には小気味良くいじったりもして、女性に喜んでもらえる人間になってほしいというのが僕の切なる願いである。